40代になって、突然、走り始めた。
私はサッカーが好きで、つい最近までは、ボールもゴールもないのに、自ら進んで長距離を走るランナーに対し、その忍耐力と持久力に尊敬の念を抱きつつも、一方で、何が楽しいのだろう、と冷ややかな見方をしていました。
友人や後輩からは、「走るの楽しいですよ~」と常々言われていたのですが、人にいわれても、全くピンと来ていませんでした。
しかし40代になり、晩秋の良く晴れた土曜日の朝5時、突然、無性に長い距離を走りたくなり、最低限の持ち物とスニーカーで外に飛び出し、その日は往復で20kmほどを歩いたり、走ったりして自宅に戻りました。こんなに長い距離を走ったのは数十年ぶりで、自分でもなぜこんなことをしたのか、その時はうまく言葉にできなかったのですが、その週末は、心地いい疲労感とともに、とても充実した時間を過ごすことができたのです。
それ以来、毎週末に10kmは(時折歩きながら)走る、ランナーの端くれとなったのでした。
走ることの喜び
突然走り始めた私が感じた、走ることで得られる喜びは、次のようなものでした。
・(仕事の疲れとは違う)心地いい疲労感で、その日一日を、充実したものにすることができる。
・一人になれる。仕事や家庭、世の中で起きる様々な出来事についての雑念を振り払い、自分の気持ちを空っぽにリセットできる。
・いい汗をかいて、体もデトックスできる。体力の衰えを予防し、健康維持に役立つ。
・誰とも時間を調整することなく、好きな時間に行うことができる。
村上春樹氏のことば
うまく言葉にできないのですが、私の感じた思いは、大好きな小説家であり、ランナーとして世界各地のフル・マラソンを走っている村上春樹氏が、著書の中で、以下のように上手に言葉にしてくれています。(以下は、文春文庫「走ることについて語るときに僕の語ること 村上春樹著」より引用です)
いずれにせよ、ここまで休むことなく走り続けてきてよかったなと思う。(中略)そしてもし日々走ることが、そのような達成を多少なりとも補助してくれたのだとしたら、僕は走ることに対して深く感謝しなくてはならないだろう。
文春文庫「走ることについて語るときに僕の語ること」村上春樹著より引用
世間には時々、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きをしたいかね」と嘲笑的にいう人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十分な人生を送りたい」と思って走っている人のほうが、数としてはずっと多いのではないかという気がする。
同じ10年でも、ぼんやりと生きる10年よりは、しっかりと目的をもって、生き生きと生きる10年のほうが当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。
与えらえれた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。
時には歩いたり、立ち止まったりもする
村上春樹氏は、何度もフルマラソンに挑戦する中で、「少なくとも、最後まで歩かなかった」ということを誇りにされていて、もし自分の墓碑に銘を刻むとしたら、このように刻んでもらいたい、とまでおっしゃっています。それはとても素晴らしいことだと思いますが、私は、自分が気持ちいいと思えるスピードで、時には歩いたり、立ち止まって音楽を選曲したり、普段、車で移動していたら目を留めることのない看板や街並みを眺めながら、今後も長く、週末のランナーとして走り続けられたらいいな、と思っています。
この本「走ることについて語るときに僕の語ること」には、心を温めてくれる言葉が、他にも多く掲載されていますので、いずれまた、別の機会に触れたいと思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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